翡翠の若葉亭

悪夢の誕生日(サザレ)その4

「……ッ……!?」

 びくりとサザレは目を覚ます。
 呼吸が荒い。心臓が早鐘のようにドクドクと脈打っている。汗もびっしょりとかいていた。
 恐ろしい夢を見た
 しかし、詳しいことは覚えていない。だが暗黒物質を延々と食べ続けていたような……。
 そこまで思い出して、サザレはひどい頭痛を覚えた。

 一度、大きく深呼吸をする。
 それから周囲を見回すと、そこは飛行船メルクリウスの整備室だった。周囲にはいくつかの工具が散乱している。どうやら作業が終わった後、そのままここで仮眠してしまったようだ。
 時計を見ると朝の四時頃を指している。

 仮眠ではなく、熟睡だったか。
 サザレはゆっくりと立ち上がり、着替えとオイルまみれの体を洗おうと工具を拾い集め、整備室を出て自室へと向かう。
 それから着替えを手にして風呂場――男湯の前に来ると、階段を上がってきたメイド――雇い主のルリカ・ド・ヴァールが視界に入った。
 気づかれる前に移動しようとするも、その前に声をかけられてしまう。

「あら、サザレさん。いつも早いですね」
「……雇い主もずいぶんと早起きだな」

「メイドのたしなみです。食材の仕込みは早朝からやっておかないと、どこかのバカが食べ尽くしてしまいますからね!」
「そうだな」

 サザレは元雇い主のアホ毛の少女を思い出す。
 元気ハツラツの心優しい少女。だが、近頃は食べる量が少しずつ増えているような気が薄々していた。そのわりによくダイエットと口にしていたが……。
 まあ、栄養を蓄えるのは良いことだろうとサザレは納得する。

「そういえばサザレさん、何か食べたいものはありますか?」
「なんでもいい」

「それ、すごく困るやつですね……」
「どれも美味い。任せる」

 実際のところ、雇い主であるルリカの作った料理は全てがあまりにも美味しかった。よほどの失敗、ごく稀に誕生する暗黒物質を除けばどんな品でも平らげられる自信がある。
 それに、あの悪夢を見たあとならリキの料理以外ならなんでも美味しく食べられそうだ。サザレは内心思った。
 暗黒物質。精神崩壊さえ招く、恐ろしい物質。狂気さえ超越した奈落……。

 するとルリカは少し嬉しそう微笑んだ。

「まったく! 仕方ないですねぇ、わかりました。何か甘いものを作っておきますね! さて、今日は忙しくなりそうです、あれと、これと……」

 好む傾向を把握されつつある気がする……。
 忙しそうに自室へと向かう雇い主、ルリカを侮れないなと内心感心しつつ見送り、ようやく男湯の垂れ幕をくぐった。
 黒いすすや油を落とし、湯船にゆっくりと浸かる。すると筋肉の緊張や疲労が癒えていくのを感じる。
 温かな湯水。とても、贅沢だ。

 サザレは湯船に肩まで浸かると、天井を見上げた。木製の、和風な作り。それと柔らかな橙(だいだい)の明かり。
 ひとりきりの穏やかな時が心地よく流れていく。

 やがて、いろいろなことが頭を巡りはじめた。
 美味しい食事。平穏な睡眠。信用できる仲間。自室。悪意や妨害を受けず修練できる環境。それと、身に余る自由……。

 ――俺は、何も償えていないというのに。

 両親が殺されたのに逃げたこと、妹に生きることを強いてしまったこと、苦しめたこと、両親の代わりを果たせなかったこと、無能すぎて望みをほとんど叶えてやれなかったこと、自分の失敗で見せしめに暴力をふるわれてしまったこと、悲しませたこと、嫌いだと言われたこと。たくさん、たくさん……数え切れない。
 自分が生きていてはいけない理由も数え切れない。

 だというのに。
 いま思い出すのはこれまでの戦いの記憶や、五人で過ごした日々、思いがけないトラブル、美味しい食事、やりがいのある強敵、それと、幸運。
 虚無感や絶望とは無縁な、嫌ではないことが、たくさん、たくさん……数え切れなくなっていく。たった一年のことだというのに。

 少し人並みに扱われると、思い上がりそうになる。オボロの言うとおりだと思った。本当に、単純な男だ。
 だがこんな自分が穏やかな日々をこうして過ごせるならば、きっと妹はもっと平穏で幸せな日々が送れるかもしれない。
 金ならある。妹が遊んで暮らせるくらいには、きっとあるだろう。家もきっと用意してやれる。

 …………。

 それから、よくないことを考えて頭に桶(おけ)で思い切りお湯をかぶった。

 ――こんな日々がずっと続けばいい。

 人でなしの自分のどこかに、そんな邪なことを考える己の存在をうっすらと感じていた。魔王を倒したあと、ごく最近のことだ。浅ましく、図々しい欲望の気配を。
 居心地が良すぎた。それがいけない。
 サザレは水がしたたる前髪をかき上げ、ためいきを一つついた。それからゆっくりと青の鋭い瞳を開ける。

 それなら、もっと役に立てるように。
 いずれはそれが、目的に繋がる。

 心地良い木の香り、寝起きの冷たい体を温める湯水、周囲を満たす湯の蒸気。
 そんな穏やかな場を後にして着替えを済ませると、自室に戻る。
 それから時間と日付を確認すると、ふと今日が自分の誕生日――6月16日であることに気がついた。

 ……なるほど、だからか。

 おかしな夢を見た原因と、普段は考えないようなおかしなことに思いを馳せた理由を理解したような気がした。
 サザレはひとり得心し、しかし変わった様子もなく筋トレを始めるのであった。
 全てはいずれ、銀髪の男を葬り去るために。


/前へ/目次/次へ/

inserted by FC2 system