翡翠の若葉亭

悪夢の誕生日(サザレ)その3

 ――それからいくらかの時が流れ。

「……、……に……」

 どこか懐かしい声を聞いた気がして、サザレはひどく気だるい体をもぞもぞと動かす。起きなくては。でなければ奴に殺される。それは、良くない。
 しかし異様に体が重く、思うように動けなかった。

「……にじゃ、兄者、起きてくださいっ。ご飯できましたよ」
「……ごは、ん……?」

 久しく聞き慣れない単語を耳にして、ゆっくりと目を開ける。
 そこには長らく顔を合わせることもなかった妹の心配そうな顔が自分をのぞきこんでいた。

「しぐれ……?」
「もう、どうしたんですか兄者。お寝坊さんですね。兄者が寝ている間に、シグレが腕にネギをかけてお料理を作ったんですよー」
「……それは、腕によりをかけて、ではなかったか」
「“より”って、なんですか?」
「……どう、だろうな。今度、調べておこう……」

 しかし、なぜ妹の部屋で眠っていたのだろうか。記憶がない。
 過労で倒れたのだろうか……。
 サザレが困惑していると、妹は嬉しそうにパタパタと自分の周囲をうろうろとしながら声をかけてくる。

「ふふっ。じゃあ、兄者はお風呂とご飯どっちがいいですか?」
「お前が好きな方でいい」
「じゃあ、ご飯です! こっちですよー」

 元気いっぱいに自分を引っ張っていく妹のシグレ。
 久しぶりにようやく顔を見ることができたわけだが、元気そうでサザレは心から一息つく。
 この少女こそが、サザレにとって唯一の希望であり、存在理由であり、責任であり、呪いなのである。

 シグレが幸せであること。
 それだけが幼少時から変わらない唯一の望みだった。

 しかしこの奇妙な違和感はなんだろうか。
 サザレは少女の楽しげな後ろ姿に、どことなく違和感を覚える。
 だが結局なんであるのかわからず、諦めてついていくことにした。
 するとテーブルに無数の真っ黒な物質が皿に並んだ、異臭で満ちた部屋に案内される。

「…………」
「頑張りすぎて、たくさん作ってしまいました。それにケーキも頑張って作ったのです! いっぱい食べてくださいね、兄者!」

 ケーキも黒いのか。
 ふたり分の食事にしても多すぎるこの悪夢のような食卓に、サザレは少し走馬灯を見た。が、見れた走馬灯は上司がぶん殴ってきたり少女とロボットに誘拐されたりといった不愉快なことだけである。

 妹に導かれ、席につく。
 眼前に迫った果てしなく続く黒い食事。少なくとも自分は食べなくてはならないとしても、妹は食べないほうが良いのではないだろうか。焦げた料理は体に悪いとも言う。それに、ダークマターと呼ばれるものが体に良い影響を与えるなど、聞いたことがない。
 隣の席についたシグレをそっと盗み見る。
 するとシグレは即座に兄の視線に気付いたようで、幸せそうに微笑み返した。

「シグレは配達のお弁当でお腹いっぱいになってしまってるので、兄者にあーんさせる係になりますね! 結構自信作がたくさん出来たので、お口に合うかはわかりませんが……いっぱい食べて欲しいです……」
「……わ、わかった」

 不安げな妹の瞳が、ぱあっと輝きを取り戻し、満面の笑みを咲かせる。
 対してサザレは処刑台に立たされたような心地で、密かに拳を強く強く握り締めて覚悟を決めていた。

 シグレの期待を裏切るわけにはいかない。
 ここで死んでも、おそらく、もしかしたら上司が蘇生処置を施して自分を再利用する可能性もある。
 妹のためにも、食べるしかない。泣かせるわけにはいかない。
 それにしても、これだけの食材をなぜ監禁されている妹が持っているのか。

 サザレはキッチンあたりに視線を向ける。
 すると、床に散らかったダンボールらしき影が見て取れた。おそらく、上司の差し金だろう。
 とはいえ、誕生日だからと妹に会うことを許可する上司が不気味でならないが、サザレは深いことは考えず、ひとまず幸運だったと信じたい現状を受け入れることにした。
 不器用とは言え、自分のために食事を作ろうとしたのは間違いではないのかもしれないから。

「じゃ、いっただきまーす」
「いただきます」
「はい、兄者。あーん」
「……いや、自分で食べる」

 いきなり巨大な黒い塊をフォークで刺して口に近づけてくる妹に戦慄し、サザレはそのフォークをそっと受け取ってひとかじりした。
 めまいがした。眼前に広がる世界が一気にぐちゃぐちゃと溶け始める。

「むぅ、兄者! せっかくの誕生日なのにダメです! お母様も美味しいものを食べるときはシグレに『あーん』ってしてくれましたもん!」
「……すまない。それを、続けて……構わない」
「やったぁ、嬉しいです!」
「…………」

 両親の話題を出されるとサザレは主張ができなくなる。深すぎる心の傷と止まらない自己嫌悪からどす黒いものが溢れて、生きる理由にさらに鎖で強く縛られ溺れていく。
 そうしてまた、果てしない苦しみと狂気の呪いは強くなる。
 正気を失いそうな凄まじい味になんとか耐え抜き、無理やり飲み下した。それから水をごくりと一息に飲み干す。水差しからまた、素晴らしく美味しい水を注ぎなおした。もう水だけで生きていきたいような絶望的な心地になる、そんな味だった。
 ゆっくりと溶けてぐちゃぐちゃになっていた世界が元に戻っていく。

 殺人的を通り越して、名状しがたい何かに成り果てていないだろうか……。

 サザレは果たしてこれらの山のようにある料理を食べきって正気でいられるのか、そもそもどうやって作ればこうなるのかと、料理の刺激も加わり、頭の中が混乱し始める。
 だが、あまりの衝撃的な体験に呆然と虚空を眺めている兄を見て、シグレはきらりと目を輝かせた。

「隙ありですっ」
「……ッ、! ――~~ッ、ぁ、ぐ!」

 こっそりと箸で掴んだサラダだったらしい黒い暗黒物質を、ぼんやりと死にかけている兄の口に素早くねじ込む。
 するとサザレは驚いたように、次の瞬間にはあまりの衝撃的な名状しがたい味と刺激による悪夢に襲われ、苦しそうに身悶えし始める。

 ホラーさながらにぐちゃぐちゃに溶ける世界と幻覚、幻聴。
 それでも飲み込めばなんとかなると、モスモスと不気味な食感で背筋に寒気を覚えながら、冷や汗を流して少しずつ少しずつ飲み込んでいく。

「美味しいですか?」
「…………(コクリ)」

「じゃあ、いっぱい食べてくださいね!」
「……………………(コクリ)」

 逃げ場はない。まだ暴力の方がマシだとさえ思える。
 だが、妹は完食を期待している。しかし、たった二口で気がおかしくなりそうだ。
 ふと黒い塊が刺さったフォークを手にした腕が、カタカタと震えだしていることに気がつく。やはり、この料理には何かおかしな薬物が含まれているのではないだろうか。

 サザレは隣で「ど・れ・に・し・よ・う・か・な~」と楽しげに選ぶ妹を静かに眺める。
 こんなに笑う妹の顔を見るのは、何年ぶりだろうか。妹が楽しんでいる……。

 …………。

 黒い塊を勢いよく口に運ぶ。
 だがモスモスと二回、口の中で塊を咀嚼(そしゃく)したところで、サザレの意識はなくなった。



 それから二時間後。



 シグレの部屋に一人の少女がやってくる。
 ひらひらと浴衣を揺らしてやってくる少女こそ、トラブルメーカーことヒサメである。
 ヒサメは上機嫌に扉に手を伸ばした。

「シグレちゃんは大好きなお兄ちゃんにおいしいお料理つくれたのかな~♪」

 ぎぃ、と不気味な音を立てて扉が開く。
 そして中の様子を目撃して、ヒサメは固まった。

「はい、あ~ん」
「…………(モスモス)」

「いっぱい食べてくれて、シグレは嬉しいですっ。もう半分も食べちゃいましたね! でも兄者は背が大きいですし、食べ足りないですよね……。じゃあ、これを全部食べたらシグレがまた腕にネギをかけて頑張って作ります! あ、でもお風呂も入りたいですよねっ。どうしましょうか?」
「…………(モスモス)」

「そうですね、たくさん食べてからの方がいいですよね! じゃあ食べ終わったら一緒にお風呂に入りましょうか、楽しみです!」
「…………(モスモス)」

 部屋には焦げ臭いと一言で表現するには足りない、不気味な異臭が漂っていた。
 さらに居間の先に続く開いたままの扉から見える兄妹の不穏な食事風景。テーブルにならぶ山のような大量の黒い暗黒物質。

 そしてそれを嬉しそうに「あ~ん」と際限なく食べさせる妹と、無表情に虚空を眺めて与えられるままに暗黒物質を食べ続ける兄。
 部屋にはイチャつく妹だけの声と、兄のモスモスという暗黒物質が立てる不気味な咀嚼音だけが響いていた。
 サザレだった何かの瞳には、もはや鋭い眼光も退屈そうな様子も、何も見て取れない。
 妹も妹で、返事もせず虚空を眺める兄に疑問も持たずお人形遊びのように会話し、食べさせ続けている。

 そのあまりに闇の深い様子に、ヒサメは恐怖した。

「ま、まさかシグレちゃんのお料理って、シュガ並みの……?」

 すると、兄の口に付着した暗黒物質のかけらを拭き取っていたシグレがヒサメに気がつき、幸せそうに兄と腕を組む。

「あっ、ヒサメさん。来てくれたんですね! 見てください、兄者とこんなに仲良くなれました。これでずーっと一緒にいられますよね!」
「えーっと、シグレちゃんってもしかして……」

 すると、むすっとしたようにシグレはヒサメを見る。

「むむっ、ヒサメちゃんに兄者はあげませんよ。兄者はシグレのなのです」
「うん……そっか。ヒサメ、よくわかったよー。オシアワセにねー」
「ふふ、ありがとうございます。さようならー」

 ヒサメは遠い目でそっと扉を閉じた。
 それからほろりとこぼれた涙をそっとぬぐい、窓から見える夕陽を眺める。

「さっちゃん、強く生きてね……。お団子、たまーに届けてあげるからね。一年に一回くらい、シュガが」

 窓の外ではたくさんのゴー君が斜陽を受けて団子を宅配していた。
 その後、さっちゃんの姿を見る者はなかったという。


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