翡翠の若葉亭

悪夢の誕生日(サザレ)その1

 ひやり。
 何かが頬に触れる感触。
 一体何だろう、と穏やかなまどろみに沈みかけていたのも束の間、一気に頭が覚醒し、目を開け――固まった。

「おはようサザレ。お前が寝坊とは、ずいぶんと穏やかではないな」
「……」

 ほおに触れていたのは人差し指ほどの大きさの小型ナイフ。
 抜き身のそれを傍らでしゃがみ込んでいる銀髪の男が、そのナイフの柄でぺちぺちと俺のほおを叩いていた。

 ――穏やかでないのはお前だ。

 内心思うが、それを口に出せば手が滑って俺の頚動脈あたりをかっさばかれて、さらに穏やかでは済まないことになる。
 サザレはちら、と壁の掛け時計を確認し、やはり自分は寝坊をしていなかったことを確認してから、押し殺したようないつもの声で問いかけた。

「俺がなにかしたか」
「寝坊した」
「……そうか。それで、俺にどうしろと?」
「いや、朝食を作ってやろう」
「!?」

 言って銀髪の男――上司のオボロは俺がくるまっていた布を容赦なく引っ張り、否、奪い取り、俺を蹴飛ばして床に叩きつけた。幸い、今日は絨毯の敷かれた場所で眠っていたおかげで、体に青アザといった負傷も負うことはなさそうだった。
 が、問題はそんなことではない。
 サザレは上司が口にしたように聞こえた幻聴に寒気を覚えながら、不信感いっぱいの目つきの悪い視線を上げる。

「グッドモーニング。良い朝だ。さあ、朝食を食べようか」
「…………」

 おかしい。
 あの鬼畜上司が爽やかな猫被りの笑顔を自分に向けている。
 たまに上司が先に目を覚ます時があるが、そういう時はいつもは本性むき出しに朝から暴力を振るってきて暇潰しをする。
 なぜなら上司、オボロにとって俺への暴力は優越感と快楽を得られるストレス発散行為。のはずだからだ。

 冗談でも俺に猫被りの笑顔を二人きりの時に向けるわけがない。
 そんな無駄に疲れることを面倒くさがりで堕落しきった、四六時中ゲームしたり本読んでゴロゴロしているオボロがするわけが、

「……ぐはっ」
「やめろ。あまり愚かなことをすると片脚片腕を落とす」

 容赦なく腹を蹴飛ばされる。
 とっさに腕で受けたものの、あまりの衝撃に床に叩きつけられた。

 ……わりといつも通りなのかもしれない。

 サザレは上司を詮索したところで半殺しにされるだけだと察して、よろよろと立ち上がる。
 ならば、また思い付きの馬鹿らしい茶番に付き合うしかないだろう。
 小さくため息をつく。

「それで、何をすればいい?」
「だから俺が特別に朝食を用意してやったと言っているだろう。お前の脳は豆乳プリンか?」
「…………」

「まあいい。ともかく、ついてくるといい」
「……わかった」

 一体何を企んでいるのか。
 サザレはとりあえず逆鱗(げきりん)に触れないようにしようと心に決め、妙に機嫌が良さそうで不気味な上司の後に続いた。

 廊下を歩き、やがて上司のオボロが手招きをしてリビングの扉を開けさせられると、

「……!?」

 そこにはフルコースの料理がテーブルに所狭しと並べられていた。
 一見しただけでも30種以上の料理はある。無駄に多い。
 一体このたくさんの料理で何をするつもりなのか、無駄にするくらいなら自分が食べて処分したいと、食事を禁じられて4日目のサザレは困惑する。
 すると疑問に答えるかのように上司オボロは猫被りの笑顔を着けて言った。

「お前のために今日は腕によりをかけて作ってやった。感想はどうだ?」
「……毒入りか?」

 水を大切に飲む生活に慣れ過ぎて悟りを開き気味なサザレは、無数の豪勢な料理を蜃気楼だと分かって眺めるかのように諦めた視線を送る。
 するとオボロは呆れた視線を返した。

「わざわざ40品も作った料理に入れるわけがないだろう。面倒くさい。人の好意を素直に受け取れ」
「…………」

 腹は倒れそうなくらいに空いている。
 今日か明日には食事をしないと、どちらにせよ死ぬ。
 この悪意を受け取らなければ、殺される。
 サザレは諦めた。

「わかった。一応訊いておくが、何を企んでいる?」
「逆に訊くが、俺がお前ごときに何を企むと?」
「む……」

 急にオボロの顔がいつもどおりの面倒くさそうな表情になった。
 たしかにオボロの言うとおりであるようにも思う。しかし、だとすれば自分に、あの面倒くさがりで性格がゴミクズの上司が自分に料理を作った意味がわからない。
 昔から『お前に食事を恵む金が無駄だ』と言い続けてきた男が、なぜ突然、しかも朝食からこんなフルコースを……。

 そうこうしているうちに上司は有無を言わさぬ笑みを浮かべて食卓の席へ促した。否、連行した。
 やはりシンプルに、この料理には何か盛られていると考えるのが妥当そうだ。
 サザレは意を決して席に着き、無数にテーブルに並べられた料理を据わった目で見据えた。
 ここで死ぬわけには行かない。
 薬物でまともに行動できなくなるなど論外だ。
 この大量の料理の中から、毒の入っていない、または生存率の高そうな部類の毒物が使われていそうな物を選ばなければ……。

「とりあえず何でも疑うのをやめろ。今回は何も混ぜていない。純粋に天才の俺が作った天才的な料理だ」

 なるほど、上司の頭が既に薬物で汚染されていたのか。
 サザレは朝からの上司オボロの態度がおかしい理由に納得した。
 すると突然、思考を読み取ったかのようにいつのまにか手にしていたコショウの瓶を額に容赦なく凄まじい勢いでぶつけられる。さらに不運なことに瓶の蓋が破損してサザレの顔にコショウの粉が一気に雪崩のごとく襲いかかった。

「ぐ、っあああ……!」
「言っておくが、俺は人に薬は飲ませるが自分では飲まない。耐性をつける目的以外ではな。よって、俺は正気だ」

 反応に遅れたサザレは目にコショウが入ったり、ひりひりしたり、肺にコショウが入って咳き込んだりと散々な有様である。
 オボロは顔がコショウの粉で大変なことになっているサザレを見て、いろいろな意味で感心しつつ手元の『定番スイッチ』を押した。

 ポチッ。

 すると天井の一部が正方形に開き、大量の水がバケツでぶっかけたようにサザレに襲いかかった。

「…………」
「これを世の凡人共はお約束というらしいぞ」

 お約束とは一体なんなのか。
 強制的にコショウはある程度洗い落とされたものの、すっかりサザレはずぶ濡れである。なお、テーブルの料理には絶妙に水の被害は及んでいない。
 これぞいろいろと胡散臭い男、オボロの天才的な罠設置能力の賜物といったところだろう。
 部下の散々な様子に当の上司は生粋のドS、あるいはいじめっ子のごとく愉悦に満ちた笑みで失笑した。
 対するサザレはこれで満足か、とでも言いたげに微動だにせず上司に据わった視線を向けている。

「では、早速食事を始めるとしよう。お前用に作ったから当然だが、今回はお前が食事をすることも許可する」
「そうか」

 もしかしたら大量の料理を前に食事を禁じられたまま何時間も過ごすのではないかと内心思っていたために、やはり少し意外に思った。
 何か裏があるのは間違いないが、とはいえもう三日以上、道端の草すら口にしていない。
 たとえ毒が入っていようとも料理ならば栄養を取れることに間違いはないのだと、思い切って美味しそうな食事に手をつけることにした。

「…………」
「…………」

 二人は何も食前の言葉を口にせずに食べ始める。
 ということで早速ひと口、サザレは葉っぱが巻かれた肉の塊らしきものを口にしてみた。

「……!」

 口の中でじゅわりと肉汁が広がり、噛み締めるほどに甘い肉の味が広がっていく。だというのにその柔らかな肉の甘味の中に時折、涼やかな風味が広がっていた。それが紫蘇(シソ)の葉だったのだと気が付いた時にはもう、箸を伸ばす手が止まらなくなっていた。

 こんな美味しいもの、食べたことがない……。

 気が触れそうだった空腹もあいまって、上司が用意した料理はこの上なく天にも昇るような至高の美食と化し、日頃から雑草や野菜くずばかり食べていたサザレを魅了した。そもそも栄養が不足しすぎて、なんでも美味しく感じられる状態だったのは言うまでもない。
 とはいえ、オボロが作る料理はたしかに人並み超えた素晴らしい料理であったことに変わりはない。

 あらゆる料理が異様なまでに美味しく、あまり食べ過ぎると体内に毒が蓄積して大変なことになってしまうと内心思いつつも、少しでも、この中の品の一つでもどうやって作るのか覚えて妹にも作ってやれたらと内心思いつつ、食べても食べても底の見えない無数の料理に手を伸ばしていく。

 そうやって追い立てられるようにむしゃむしゃと夢中で料理を平らげていくサザレを眺めながら、オボロはスマホを片手に邪悪な笑みを浮かべていた。

「ところでサザレ。ペットを飼う予定はないか?」
「……、……」

 サザレは食べるのに夢中である。

「おい、聞いているのか」
「……?」

 ドスを効かせた声で優しく語りかけると、部下はびくりと体を震わせて上司を見た。
 するとオボロはひどく面倒くさそうに、しかし悪い笑みを浮かべながら問いかける。

「ペットを飼う予定はあるのかと訊いている」
「ない。無駄だ」

「……そうか。では飼え」
「……?」

 サザレは箸を止め、首をかしげた。
 ペットを飼えとは、どういう意味なのか。上司が自分を奴隷同然に虐待対象として飼っているように、誰か誘拐しろという意味なのだろうか。
 様々な憶測を巡らせていると、オボロは続けた。

「人ではなく、ハムスターとか猫とか犬を飼えと言っている。そのへんによくいるだろう」
「養う金はないが」
「自力でどうにかしろ」
「……なぜ、ペットを飼う必要がある?」

 さすがに理解が全く追いつかなくなり、サザレは訝しげな様子で上司に聞き返す。
 一体何を考えてこんなことを言っているのか。テレビで何かを見て影響されたのだろうか。わりと変なことに影響を受けやすい性格を考えれば、ありえない話ではない。
 するとオボロは部下の様子を面白がるように口元に邪悪な笑みを浮かべつつ、手元のスマートフォンの画面を見せてきた。

「フッ、それはこれを見ればわかる」

 その画面には、なにやら表のようなものが書かれていた。

『【サザレの人生一覧表】
2019年9月:ペットを飼う
2030年10月:拉致される
2064年5月:拉致される
2082年6月:死亡』

「……なんだこれは」
「ツイッカーの診断メーカーから出てきた結果だ。つまり、お前がペットを飼えばその通りになるかもしれん」
「……嫌なのだが」
「お前の意思が必要だとでも?」
「…………」

 むしろその表通りなら、お前は一体何歳まで生き続けるつもりなのかと内心辟易(へきえき)しつつ、サザレは再び食事に戻った。
 どうせ何もしなくても上司がその気になれば動物を押し付けてくるだろう。ならば、少しでも栄養を摂取したほうが合理的だ。たくさん食べられるときに食べる。それが生存戦略というものだろう。それに遠からずオボロは俺が殺す。長生きなどさせない。
 あまりに飢えすぎて、料理が美味しすぎて、サザレは上司の話題には全く興味なさげに食事に戻る。
 対する上司オボロも、言いたいことを言って気が済んだかのようにどこからかアイマスクを取り出して椅子で寝始める。どこまでも自由だ。

 こうしてサザレにとっては少し幸運な、穏やかな時間がいくらか流れていく。はずだったのだが。
 突如、インターフォンの音が鳴り響いた。

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