翡翠の若葉亭

夜明け前の糸紡ぎ[1/2]

 朝の四時に、目が覚める。

 それは染み付いた習慣によるものだったが、その環境は昔とは大違いのものだった。
 柔らかなベッドと清潔な布団のぬくもり、澄み切った早朝の肌寒さ、穏やかな静寂、窓越しに見える桃、紫、水色の淡い水彩じみた夜明け前の空。
 体を起こし部屋を見渡すと、整頓された家具、そして二人の人族が眠っている様子が視界に入る。
 さすがに早朝だけあって、誰も目を覚ます様子はない。

「むにゃ……キースくん、それ爆弾……」

 いや、一名起きているのか寝ているのか第二の人格が覚醒しているのかよくわからない人物がいた。が、それは置いておくとしよう。
 世界最大の賞金首にして脅威であった魔王を彼らとあと二人、五人のパーティで討伐を果たしてからも、この穏やかな朝の時間は変わることはなかった。
 痛みもなければ絶望もなく、朝に怯えることもなく、いつ殺されるかと気を張る必要もない。困った時には全て任せておける男もいる。

 気が楽で、何より穏やかな心地だった。
 これが人を信用してしまったということなのだと、近頃は身に染みて感じている。
 シュートアローで撃たれようが、切られようが魔法で電撃を食らおうが、自身の根底にまだ残っているらしい甘い部分がそれら全てを受け入れようとしてしまう。
 いつものように些細な部分から疑おうとしても、一度敵ではないと線引きした人物のどこを疑えば良いのかすら、わからなくなっていた。裏切られれば、下手をするとあっさり殺されるかもしれない程に。

 武器と荷物を手にしてベッドを降り、洗面所に向かう。黒いマントは二本の剣に巻き付けた。
 洗面台の前に立ち、軽く顔を冷水で洗うと意識がはっきりとした。まどろみや睡魔が消え失せる。

 そして、鏡を見た。

 いつもの、無表情で何を考えているのかわからない、知りうる限り最も気持ちの悪い顔がこちらを見ていた。だが、どこか昔のように狂気じみた、死に物狂いの雰囲気は感じなくなっていた。むしろ、穏やかささえ感じられる。
 体つきも昔のように病的に痩せている感じは微塵もなく、シャドウ特有の細身で筋肉がついているといった風体だった。

「――!」

 その姿に、かつての上司――親の仇の姿が重なる。もう一度顔に冷水をかけて、幻覚を霧散させた。それから小さく息をついて、もう一度鏡を見る。宿の従業員により磨かれた鏡は、手入れを日々施されているからか、正直に姿を写した。

 強くなった。だが、それでも殺すべき上司を上回れているのかどうかは怪しい。知恵も体も技術も上回る天才と同等の体と技を手に入れたとしても、才覚と経験の差を埋めるには厳しいことは想像に難くない。
 まだ、もっともっと、誰にも負けないほどに強くならなくてはならないことは明白で、もっと知識も経験も積まなくてはならず、身も心も限界を超えなくてはならない。
 囚われた妹を救い、元上司を殺す機会はただの一度しかないのだから……。

 故に、幸運だった。

 魔王討伐を果たしたこの五人のメンバーが、目的を終えたあとに解散することなく、ユリンとルリカが世界旅行をするといい、リキとの契約を完遂した俺をルリカが雇った。キースも誘われてその旅に参加することになり、元雇い主のリキもどこか迷いを見せた様子だったが、参加することを了承してくれた。
 一年でここまで強くなれたのであれば、恐らくは、またこのパーティと共に旅をすればさらに強くなれる。
 そんな根拠のない予感じみた確信があった。

 洗面台の横に置かれたタオルで顔を拭き、黒のマントを首に巻きつける形で羽織って、いつもの場所へと向かう。
 四階のエントランス。いつも無人で、椅子や机がある、大きな窓から空がよく見える場所だ。

 朝の筋トレを済まし、いつもの席に座って空を眺める。
 これも、ある種の習慣となっていた。

 この大陸に住む人々は、あまり空を見上げることがないように思う。
 それはきっと、呼吸をするための空気があることが当たり前であるように、空があることが当たり前なのだろう。
 違いがあるとすれば、一年中深い霧が覆い、空を見ることのできない蛮族の都[霧の町]で生きてきたことだろうか。
 ぼんやりと、そんな些細なことを考えながら空を眺めていると、ふと一人の少女のことが頭をよぎった。

 ――リキシア・フェルベール。

 上司にリストラを宣告され黄昏の大陸からここ、テラスティア大陸に捨てられて仕事を求めて回っていた時に拾ってくれた、ただひとりの少女。
 あのまま誰にも雇ってもらえなければ、おそらくどこぞの商人に強盗でも働いて、この窃盗に対して厳格な町で処刑されていたことは想像に難くなかった。

 魔王討伐の目的を掲げたのも、彼女だった。

 妖精使いは、変わり者が多いのだという。
 確かに彼女は――リキは俺が知らない行動原理で、己の欲望に正直に生きているように見える。だが同時に、変人と称しても不自然ではないと思える程に、心優しい人物だった。

 雇われるということは、金と引き換えに主人のための使い捨ての駒か道具になるということだと上司から聞いていた。

 気に入らなければ捨てることもでき、契約を一方的に切ることもできる。傭兵ギルドや冒険者の店といった仲介機関を介していない契約であったから、俺との契約を一方的に破棄したり、不当な暴力を加えたところで罰せられることもない。
 だというのに、身分も苗字も金も――それどころか剣士としても斥候としての技術も未熟なクズ同然の俺をひとつ返事で雇うことを了承して契約を結んだ上に、失敗をした時も、敵に斬られて瀕死になった時も、魔王の呪いを受けて雇い主やその心酔している対象であるキースを傷つけて意識を失った時も、決して見捨てたり、見殺しにしたりはしなかった。

 強くなれたのも、今、生きていることも全てリキのおかげだった。
 本当ならば、仇討ちや妹を救い出すことも叶わないままただ無名に死んでいくだけのはずだったのだから。
 初めての雇い主、雇ってくれたのが彼女でよかった。契約を終えた後も、魔王討伐に付き合ってよかった。最後まで死なせずに守ることができてよかった……。

 そんな浮かれたことを最近になって考えるようになった。
 後悔ばかりで、人族といえば迫害しかされてこなかったことを思い返せば、この一年はよくやれたと思う。
 だが、殺戮に快楽を覚え、契約とはいえ蛮族側に身を置いていたこと、頭のおかしい殺人鬼であることを知られれば、この仮初の安息も終わる。また、全てが敵になる。
 キースの隠し事を見ていて、よく羨ましく思っていた。
 種族を隠していたとしても、このパーティのメンバーであれば真実を快く受け入れるだろう。しかし、自分は違う。経歴の汚濁は、ぬぐいきれるものではなく、軽蔑と嫌悪感しか人に与えない。
 変人は受け入れられても、改心できない悪人は受け入れられることはない。
 しかし……

 懐から、手帳を取り出す。
 リストラを宣告され、野に放り出されてから少ない所持金で買った安物の15P程度のものだ。しかし、購入した時と比べると白紙だったページは文字で黒く染まっていた。

 旅立ってから、妹を救った後のことを考えた皮算用――全ての役目を終えて、自分が消えた後のための保険に書き始めた手帳だった。書く内容は、最初から決めていた。

 人族が支配するテラスティア大陸での、良いと感じた物事や美味しい食べ物、綺麗な場所や妹が気に入りそうな店、祭りや、妹が途方に暮れた時に頼っても問題なさそうな人々。そんなことを書き記している。

 だが、とても少ない枚数の手帳に書ききれたものではなかった。
 美味しい食べ物などこちらには無数にあり、リキやルリカのような女性に向けた服の店も日々増えていく。振興のアルカドの町では日々、公式か非公式かもよくわからない祭りが勝手に宣伝されて繰り広げられている上、この空があればどこも綺麗な場所だった。頼って問題ない人といえば冒険者の店の店主やストラウド一行のような善良なことで有名な冒険者、面倒事を全て押し付けても問題なく解決しそうなキース等……こちらの人族の世界では普通の人ならば生きるのに困らないように感じた。それに気がついたのは、何枚もページを消費してしまった後だった。

 妹に伝えたいことはまだまだ無数にあった。

 太陽は東から昇ること、朝は寒いけれど空気が澄んでいること、夜に出歩くのは危ないこと、果実を絞った飲み物は独特だが美味しいこと、様々な花があること、歌があること、夜空は美しいこと、月は毎夜姿を変えること。

 そして、世界が広いこと。様々な人がいるということ。

 手帳を閉じ、誰にも見られないよう手早く懐にしまう。
 それから席を立ち、北の方角を見据えた。
 その方角は、黄昏の大陸へと渡る大橋を保有するダーレスブルグ公国へ続く平原であり、それを超えた先には、全ての決着をつける場所、蛮族の都、[霧の町]――通称ミストキャッスルが存在する。
 だが、まだその時ではない。ただ……。

 魔王討伐から続くこの旅も、いつまで続くのかはわからないものであり、この五人のメンバーで共に日々を送るのも、下手をすると明日で終わるかもしれなかった。


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