翡翠の若葉亭

地獄の夏野菜カレー その2

 するとオボロはこの世のものとは思えない何かを見たように呆然とサザレを凝視した。
 早速下手なことをしでかしてしまったのだろうか……。緊張で包丁を握った手が震える。

「……普通に考えて、肉かにんじんを入れるのが妥当だろう。お前、カレーすら作れなかったのか」
「…………そうか。確認しただけだ」

 雑念を消し、淡々と調理を始める。無駄な思考は粗を露呈させて、上司に余計に馬鹿にされるだけだと理解した。
 しかしにんじんとナス、パプリカとオクラを同時に入れようとするとまたも暴力的なストップがかけられ、大きくため息をつかれる。

「お前の頭が馬鹿すぎて俺の天才的思考ではまったく理解ができないのだが、なぜ野菜を一気に投入する? 障害者か?」
「…………昔は、野菜は一気に炒めていた。野菜カレーなど、作ったことはない」
「そうか、では今夜はバカの一つ覚えのような記憶が消えるくらいにはその頭をどうにかしなくてはな。ところで、肉は何を使うつもりだ」
「……鶏肉だが」
「ひき肉を使え」
「何故だ」
「野菜カレーはそちらのほうが好みだ」
「…………そうか」

 何度目かさえ思い出したくもない『自分で作れ』と言いたくなる衝動をこらえ、サザレは冷蔵庫からひき肉を取り出し、調理に取り掛かろうとする。
 が、またも暴力的なストップが入った。そろそろ後頭部の骨にヒビでも入るのではないだろうかと痛みに耐えて振り返ると、

「玉ねぎの後にはひき肉を入れて炒めろ。で、次にトマトを投入し水気がなくなるまで火にかける。並行してナスを別のフライパンで炒めておけ。パプリカは適当にトマトを投入した鍋に入れておけばいい」

 既にトマトをダイス状に切って準備万端、といった様子で包丁片手にせせら笑う男が台に座っていた。やたらと料理にこだわるくせには、自分は調理台に平然と腰掛ける始末である。サザレは料理の上手さは料理人のプライドに比例しないのだと悟りじみた理解をした。
 しかし散々料理に文句を言っておきながら、途中から際限なく追加注文を増やしていく……。
 このままでは一日かかっても昼食が作り終わりそうもない。
 サザレはとにかく早くこの状況を切り抜けようと、頭から指示が抜ける前に手早く調理を始める。

 それから何度も何度も殴られながらも、なんとか皿に盛り付け、やはり少し量が多かったものの夏野菜カレーを完成させることに成功した。
 完成後、サザレはあまりの疲労感にめまいを覚える。時計を見ると、既に一時だった。味見を少しだけできたものの、空腹は解消されそうもない。目の前で美味しそうに湯気を上げる夏野菜カレーを一口だけ食べてみたい衝動に駆られるが、ぐっとこらえた。
 隣に上司がいるからだ。

「……まあ、及第点か。最初にクミンシードでも入れておけば良かったものを。それに炒め方にも難有りだな。雑すぎる」
「…………」

 上司オボロはやはり暇そうに調理台に腰掛け、出来たてのカレーを「いただきます」も言わずに頬張ってまた文句を言っている。
 こちらも文句を言いたくなるが、空腹と疲労で気分が悪かった。
 しかし気分が悪いとは言え、訊いておかなければならないことがある。
 サザレは意を決して口を開いた。

「オボロ、暇なのか?」
「ん? ああ、暇だが。でなければお前のような馬鹿に料理の指導などせん」
「…………」
「何か俺が暇だと不満でもあるのか」
「……俺が、疲れるのだが……」
「そうか、ではしばらくこれを続けるとしよう」
「…………」
「おかわり」
「…………ああ」

 こうして地獄のような昼食は終わりを迎えた。
 しかしサザレは気がついていた。
 まだこれは昼食。悪夢の序章に過ぎないのだと。
 上司が廃棄した印刷ミスのコピー用紙の裏にレシピをカリカリと書きながら、サザレは物陰で思案する。

 今日の夕飯は、何が良いだろうか、と。

 しかしすぐに頭を力なく振った。
 どうせまた姑じみた暇な上司に小言を言われるのだから、何をしても無駄だ。普通に知っている料理を作ろう……。
 レシピを書き終えると、こっそり昼の夏野菜カレーの食べ残しを回収しておいた皿を手にして、サザレはじっと作った料理を眺めながら深刻そうに思案する。

(食べてしまうべきだろうか。だが、上司に見つかればどうなるかわからない。が、カレーは栄養価が高い。夏野菜カレーともなれば旬の野菜ということで不足しがちな栄養も十二分に確保できるだろう。きっとこれを食べれば、三日は無事健康に生きられる。しかし、これはオボロの食べ残しでもある……。こんなもの……だが、そろそろまともに何か食べなければ倒れるかもしれん。空腹で今にも倒れそうだ……。……俺が上司に作ったものを俺が食べる……そう考えれば食べられなくもない、だろうか……だが……)

 長い葛藤の末、サザレは地獄のような時間を生んだ元凶の夏野菜カレーを顔色悪く頬張り始める。
 その瞬間、びくりと震え、手が止まった。
 美味しかった。知っているカレーのどれよりも。

「…………」

 少し間を置いて、食べ始める。食べているところを見つかれば、終わりだ。本当はもう少し時間をかけて食べたい気がしていたが、それが叶う立場と状況ではない。
 すぐに皿を綺麗に空にし、流しで急いで洗い物を始めた。
 口の中にかすかに残る、カレーに溶けたトマトのほのかな酸味とパプリカの優しい甘み、ひき肉の癖になる味などなど知らなかった美味の余韻に浸りながら、すぐに洗い物は終わる。

 この後はまたこの闇影探偵事務所の悪趣味なチラシ制作だ。あと五千枚も手書きで制作しなくてはならない。そんなに作って、どこで配るつもりなのだろうか。そもそも、配る気があるのだろうか。

 ちら、と居間を見ると、上司はなにやらテレビゲームをしているようだった。たしか最近買ってきた『魔法少女マジカル☆ユリンたん~ムキムキ!タフネスフェアリーテイマー~』というタイトルのソフトだったか、よく分からないが。だがまだ大人しい。ほっと胸をなでおろす。
 何やら騒々しい音を耳にして窓に目を向けると、煮干しを返せと喚く赤いバンダナの男が飛び跳ねていた。あれが不審者か。サザレは夏は変人が増えるという言葉を思い出す。

 くだらないことを考えるのはよそうとタオルで手の水気を拭き取り、作業場へと向かった。妹のところへ帰るならば、一枚でも早く書かなければ。

 そうして意気揚々と扉を開け、サザレは居間から出て行った。それを上司は横目で見送っている。

 最後までサザレは気がつかなかった。

 上司が邪悪な笑みを浮かべていたことに……。

 数時間後、唯一の職員の少年の身に何が起きたのかはふたりの他に知る者はなかった。


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