翡翠の若葉亭

地獄の夏野菜カレー その1

 ここは笊津市にひっそりと佇む私立探偵社、闇影探偵事務所。

 しかし今日は入口の扉に『CLOSE』の立札がかかっており、営業はしていないようだ。この探偵事務所は曜日単位では休日を定めていないようで、時折このように臨時休業になっていることも珍しくはない。その理由は定かではなかったが。

 そんな仕事もないはずの穏やかな午後、二人しかいない職員、所長の暁朧(あかつき おぼろ)と職員のサザレがなにやら事務所の中で揉めていた。

 これは思いつきから始まった、壮絶な食の悪夢の記録である……。



 サザレは厨房に立ち、包丁で玉ねぎを切っていた。根の硬い部分だけを残し、横に三本、縦に一本の切り込みを入れ、慣れた手つきでカットしていく。
 それを無表情に油を引いた鍋に放り込むと、レバーを操作し、コンロを点火した。その間にまな板の上のゴミを処分し、にんじんやナス、じゃがいもを手早くカットする。途中、焦がさないよう鍋の中の玉ねぎを転がすことも忘れない。

 やがてほんのりと玉ねぎが飴色になってきた頃、カットしたにんじんとナスを放り込もうと移しておいた皿を手に鍋へと近づいた。はずだった。
 後頭部に意識を刈るような衝撃を突然食らったかと思うと、右手の皿の感覚がなくなり、頭から鍋に突っ込む寸前で襟首が掴まれていた。

「……いま、何をしようとしていたか言ってみろ」

 嫌でも背後に感じる威圧的な死の気配――上司、暁朧(あかつき おぼろ)だった。
 そして今、頭ごと鍋に突っ込まれてカレーの具になるか、生かされるかは上司の気分次第といった状況である。
 サザレは後頭部の強打による副次的な麻痺からまだ回復しきれず、さらに襟首を掴まれ背後に立たれているという位置関係ならば、急所を切られて始末されたとしてもおかしくはない。
 日頃実感していたとはいえ気配を一切感知できず、いつまでも上司は自分の命を握りつぶせる力関係なのだと劣等感と寒気を感じた。
 しかし理解できないのは、なぜ昼食を作れと命じておいて暴力を振るいに来たのか。サザレは今日も生き残るため、慎重に言葉を選ぶ。

「……野菜を炒めようとしていた」
「なぜこのタイミングで他の野菜を同時に入れようとした」
「……昔、こうやって作っていた記憶があった」

 幼い頃の夏、外に出ることを禁じられていた幼いサザレはよく母と一緒に夕飯を作っていた。刃物の扱いを覚えるためだと言い張って、野菜のカットを背伸びしながら手伝っていたのは数少ない、大切な思い出だ。

「そうか。ではその記憶はゴミに出しておけ。で、お前が作ろうとしているものはなんだ」

 上司は平然とその記憶を踏みつける。慣れすぎて反抗する気も起きないが、不機嫌な態度を見せても恐らくカレーの具にされるのだろう。
 サザレは小さくため息をつき、暇そうな上司に返答した。

「……夏野菜カレーだ。ナスがあったからな」
「夏野菜なのにナスだけなのか。ナスを入れればただのカレーに『夏野菜』の名を冠することができるとはな。めでたい思考回路だ」
「何が言いたい」

 襟首を思い切り引かれ、上司と正面から向かい合う形になる。そこでようやく上司が、左手に先ほど自分が投入しようとしたナスとにんじんをカットしたものを乗せた皿を手にしていることに気がついた。
 それとなく、確信じみた嫌な予感がもう手遅れだと脳内で平穏の終幕を知らせる鐘を打ち鳴らす。サザレは今日は一日中、上司の暇つぶしに付き合わせられることを諦めと共に確信した。

「お前が作っているものはただの泥だと言っている。カレーですらない」

 炒める段階から否定しておいて、何が泥だと言い切れるのだろうか。
 サザレは上司のわがままに深くため息をつきたくなる。そもそも、なぜ不味いと言うくせに朝昼夕と俺に食事を作らせるのだろうか。一日三食嫌がらせをしなければ気が済まないのだろうか。
 面倒くさがりの権化は相変わらず暇そうにふんぞり返っている。

「……そう言うのならば、お前が作れば良いだろう。俺はレシピもうろ覚えで作っている。望むものは作れん」
「お前の頭は干からびたスポンジか。俺の部下ならば俺が望むものを作るのが当然だろう。でなければ、ここに置く価値もない。俺の身の回りの世話もできないお前に価値はないからな」
「…………」

 サザレは言葉に詰まり、見返すことしかできない。オボロはその様子をどこか満足げに見ながらコンロの火を消した。
 妹を殺されないためにこの憎い男に仕える道を選んだ。その時は必死で考えなしに提示された条件を全て鵜呑みにしてしまったが、それからはこんな日々ばかりが続いている。その時の選択を後悔しない日はないが、どんなに考えても他に選択肢はなく、何を努力しても死ぬか、こうなるしかなかったように思えた。

 上司は有能だが、部下である俺は無能だ。
 だからこそ契約を交わしてからはずっと、この殺すべき相手を手伝い、支え、身の回りの世話をすることでしか生きることを許されていない。逆らえば妹が殺される。そんな理不尽な日常だけが続いていく。
 嫌がらせが好きな上司はだからこそ、俺の揚げ足を取り、馬鹿にする。その指摘を受けて、俺は少しずつ上司に都合の良いように改善を繰り返す。最悪の事態を恐れながら。
 とても不愉快で、自己嫌悪に陥るが、それがいまの現状だった。
 サザレは暗い目で床に視線を這わす。

 そのようにして上司の思惑通りにサザレが鬱々と自分の立場を噛み締めていると、オボロはどこか上機嫌に口元を釣り上げた。サザレの背筋に寒気が走る。

「……と、言いたいところだが、俺も不味い飯ばかり食わされるのは望むところではない。時間はある、今日は特別に手とり足とり教えてやるとしよう。だが馬鹿なことをすれば手と足がどうなるか、覚悟しておくといい」
「……(コクリ)」

 何かテレビで料理の豆知識番組でも見たのだろうか……。
 サザレは、もはや何をしても手遅れだろうと今週も妹のいる家には無事戻ることはできそうもないと諦めた。
 そそくさとエプロンをつけ、バンダナを巻いた上司を止められるものはいるのだろうかとサザレはやはり暇だったらしい上司を呆れた目で傍観する。
 するとオボロは馬鹿にしたように呆れた視線を返してきた。

「何をしている。トマトはサラダにも使えるから高望みはしないが、せめてピーマンかパプリカ、ズッキーニ、オクラ、カボチャと何かしら足す努力をしたらどうだ。夏野菜カレーなのだろう?」
「……わかった」

 希望が多すぎないだろうか、とため息をつきそうになりながらもパプリカとオクラとカボチャを冷蔵庫の野菜室を開け、抱え始める。
 すると後頭部を再び容赦なく殴られた。抱えた腕からオクラが野菜室の中へといくつか転がり落ちる。

「馬鹿か。食べるのは俺一人だというのになぜそんなにオクラとパプリカをいくつも取り出している。目安はふたり分、常識だろうが」
「……そうか」

 そもそもパプリカとオクラのふたり分を目安とした使用する分量はどれくらいなのだろうか。サザレは夏野菜カレーなどと迂闊に口にしたことを後悔しながら夏野菜を取り出し、野菜室を閉めようとすると再び声がかかる。

「それと、俺はカレーにカボチャは好まん。覚えておけ」
「わかった」

 ならば最初から材料の候補にカボチャを含める必要はなかったのではないか、そんなことをうんざりと思いながらサザレはパプリカとオクラを取り出し、水で洗ってカットを始めた。
 が、その直前で手を止め、馬鹿な失態で手を無闇に喪失しないよう念のため、胡散臭そうにこちらを眺めて粗探しをしている上司に質問をした。

「……一応だが、オボロの考えではパプリカとオクラのふたり分を目安とした分量というのはどれくらいなのだろうか?」
「俺がいつも食べている具合から考えればわかるだろう」

 そう言いながら不敵な笑みを浮かべて見下してくる。
 サザレはまともな回答を期待することを諦め、作業に戻った。オクラは五本、パプリカは一個まるごと使うことに決める。不味いと言いながらも完食し、量が少ないとまた文句を言うため量を想像よりも多めにしようと考えたのだった。
 それを終えると、再び最初の課題に戻ってくる。

 ほんのり飴色に色づく程度に炒めた玉ねぎ、そのあとの工程をどうするか。

 下手なことを訊けばまたカレーの具にされるかもしれない、とサザレは言葉を選んで質問する。

「玉ねぎを炒めたあと、どうすればいい?」


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