Crimson Spring[2/2]
――同じ朝が来ることは、当たり前だった。
俺はいつだって守られていて、俺もいつかは大切にしてくれた人を守る盾になるんだと日々を過ごしていた。
朝が来れば理由も分からないまま家族の無事を神に感謝し、言葉でしか知らないような敵を倒すのだと周囲に豪語し、神に弱者を守る盾となり剣となると祈りを捧げた。
そう、子供だった。
“まだ”、じゃない、“いつまでも”子供でいた。
まだ、鳥が地に落ちることの意味すら知らない、そんな幼すぎた俺の緋色の情景。
襲いかかる無数の異形の蛮族、蠢き生者を喰らう死体の群れ……。
時が経てば経つほど動く死体は増えて、その生者を襲う死体の群れの中には見知った顔や兄ちゃんがいた。
そして、生きたまま蛮族に連れて行かれた村人の中には弟のクラムと妹のプラムもいて……。
俺は、誰のものとも知れない錆び付いた剣を構えて切りかかろうとしたけど、襲いかかってきたゾンビに殺されそうになった。そしたら、自警団の副団長がかばって身代わりになっちゃって……。
自分でも分からないくらいに必死に走って、怖くなって逃げ出した俺を突然呼び止めた声にほっとして振り向けば、角を生やした青白い肌の異形の蛮族がいた。
そいつは手下らしい蛮族達に死体を集めさせて何かをしていた。
蛮族や死体を慣れた様子で指揮する、その明らかに普通じゃない様子を見れば弱い俺でもすぐに分かった。
こいつが、この化け物達の長なのだと。全部、何もかもがコイツのせいなんだと。
でも憎しみは、まだ沸かなかった。ただただ、怖かった。
現実味がなかったんだ。
どうしてこうなってしまったのか、分からなかった。
だって、普通はこういう蛮族とか魔物が来るなら村の緊急時用の警鐘の鐘が鳴るはずだし、こんなに大勢来るなら尚更もっと早くに気づくはずなんだ。村にはちょうどラ・ルメイア王国からの見回りの騎士も来ていたはずだし、自警団のみんなも強いはずなんだ。
だから、こんなことがあっていいはずがない……。
――これは悪夢じゃないのか。こんなことがあるわけがない。みんなが死ぬわけがない。俺が死ぬわけがない。エナが死ぬわけが……
破壊音と罵声と悲鳴と、気がおかしくなるような不気味な笑い声に怖くなって、わけがわからなくなって、突然エナのことを思い出して俺の家の隣にあるはずの青色の屋根の家に向かった。
けど、たどり着いた時には既に、地獄のような豪炎に家は呑み込まれてしまっていた。
火の妖精サラマンダーが無邪気に遊んでいるような、まるで魔法のような紅色の炎があちらこちらから勢い良く吹き出している。
俺は、不安で不安でいても立っていられなくて、中へ飛び込んだ。
頭の中は真っ白で、自分が火事に巻き込まれて死ぬことなんて頭にはなかった。冷静に考える余裕なんて、なかったから。
みんな殺されて、連れ去られて、魂を勝手に穢されてアンデットにされて……とにかくひとりでも多くの大切な人が生き残っていることを一秒でも早く確かめたかったんだ。
でも、そこには――……
「……ザッツ、どうしたの……?」
気遣わしげな、幼馴染のエナの鈴のような声が俺を現実に引き戻した。
ふと、昔はこんなふうに恐る恐る声をかけてくることなんてなかったな……と寂しくなる。
前に見た悲しげな表情を思い出し、胸の中で渦巻き始めた切なさから目をそらした。
ザッツ・ストラウドはゆっくりとまぶたを押し開けていく。
眩しい昼の太陽に目を細めて目をこすると、傍らで本を手にして座っている少女、エナ・ミシュレイに微笑みかけた。
「ん、なんでもないよ。ちょっと疲れたのかもな、ここ数日歩きっぱなしだったからさ」
「……そう、それなら良かった。でも、困っていることがあったらいつでも私に言って? 私、きっとザッツの力になるから――」
重々しい金属製の手甲を脱いだ手で、ザッツはエナの茶色い頭にそっと手を置いた。するとエナは驚いたように目を見開いてザッツを見る。
「――大丈夫だ。というより、エナは心配性なんだって。俺はそんなに弱くないし、昔とは全然違うからな。今ならオーガ相手に一人で勝てるんだぜ? 俺は絶対に二人を守るから、そんなに心配するな。前衛に立つ俺からしたら、バックのエナがそんなに心配していたら不安になるだろ?」
頬を微かに桃色に染めていた少女は少年の言葉を聞くと、急に目を伏せて小さくうなずく。
すると、ザッツは慌てて手を引っ込めてそっぽを向いた。自分がしていたことに今さらに気がついたようだった。
「あ、ご、ごめん! エナがあんまり心配そうだったから、ちょっと……その、クセで……」
「……ううん。いいよ、別に。ザッツって、鈍感だもんね」
少し寂しげな様子でエナは小さく息をついて呟く。後半はほとんどそよ風に盗まれてザッツの耳には届かなかった。
「そ、そっか……うん、良かった。いや、良くはないけどな? ……にしても、誰かの頭を撫でるなんて久しぶりだよ。プラムとかにはよくやってたんだけどな。あ、でも本当に悪気は――」
クスリ、とエナは笑う。
ザッツはエナの反応に苦笑して頬を掻いた。
少年少女の間に風に乗って一枚の木の葉が流れて行く……。
そのままひらりひらりと回り、地に落ちるともなしに草原を流れていった。
その木の葉はやがて草原の小さな隆起した地にゆらゆらと舞い降りる。
着地点には焦げ茶色のブーツ。
そのブーツを履いた、高貴な雰囲気が漂う狩人風の男は密かに草原の隆起に隠れて、一人優しい微笑を浮かべていた。斥候としての技術を使い、会話に聞き耳を立てているようである。
小さな文庫本サイズの書物を片手に狩人風の男、カルタッドは穏やかな日差しの下で青春の盗聴を楽しげに続けていた。
しかし、二人は気がつかないままに話を続けていく。
「なんだよ、俺は本気で言っているんだぞ?」
「ふふ……ごめんね? でも、ザッツも心配性だなって思ったの。似た者同志、かな……?」
上目遣いで恥ずかしげに言葉を紡ぐエナ。
自分で言っていて恥ずかしくなったのか、すぐにうつむいて視線を彷徨わせ始めた。何かをこらえるように拳をギュッと握り締めている。
対するザッツはというと、不自然なくらいに顔を背けていた。無論、その顔色は真っ赤で、虚空を見ているというのに視線は落ち着かずにあちらこちらを転々としている。
数秒の後、こらえきれなくなったのか、突然ザッツは立ち上がった。
「……え、えーっと……、あ、そうだ! 俺、カルタッドさんと話すことがあったんだ! 悪い、エナ! ちょっと俺、向こうで休憩してるカルタッドさんのところに行ってくる!」
「あ、待って、私も――」
立ち上がろうとすると、ザッツは不自然に顔を背けたままブンブンと壁を作るように両手を振って否定する。
「いや、いいよ! エナは魔法使うの大変だろうし、もう少し休憩していていいから!」
言い終わらないうちに、逃げ出すようにザッツは小さなテントの方へと駆けていってしまった。
何かの影がもう一つテントに向かって行ったような気がしたが、目をこすると消えていたため、気のせいかもしれない。
赤髪の騎士風の少年を見送って、エナは小さくため息をついた。傍らの芝生の上に抱いていた本を置き、自分の体を静かに抱き締める。
こうすると、少しだけ大好きだった両親に慰められているような気がするのだった。
両親はいつも自分を慰めてくれて、一番に片想いの恋を応援してくれていたというのもある。怪しげな薬を手渡してきたときもあるにはあったが……。
――お母さんとお父さんは、私の心の中でずっと生きている。いつもみたいに応援して、励ましてくれる。だから……私は、もらった元気をザッツに分けてあげないと。
「ね、そうだよね……? 頑張っている人が大切な人なら、私もまだ全然頑張れるよ。でも……あの日から、もう七年も経つんだね……」
空を見上げ、誰ともなしに少女は語りかけるように呟く。まるで、空に語りかければ想う人々に声が届くとでもいうかのように。
そっと、手を傍らの本の上に乗せる。表面の凹凸をなぞるように愛しげに指を滑らせた。
その本は、両親が最期に誕生日に贈ってくれた真語魔法についての書物だった。それも、優れた魔術師の両親が二人で一から編集して作ってくれた、世界でたった一つの真語魔法の研究書物。ページ毎に両親がアドバイスや応援の言葉を書いてくれている。
主に、恋の応援というのがエナには色々と複雑な心境ではあったが、それもそれで励まされているのだから、冗談にも不思議な力があるんだなと魔法の発動には関わりのない、ただの言葉が持つ力にエナは考えさせられる。
ぼんやりと少女が空を見つめていると、風が凪いで茶色の前髪を柔らかく揺らした。
「……私が、ザッツを救わないといけない」
焦げ茶色の瞳には優しさと、確固たる決意を秘めた強い光が宿っていた。
それは、これからも苦難をあの少年と共にするという確かな少女自身の意志の現れだった。
新緑の葉が名も知らぬ森から運ばれて、草原を吹き抜けていく。
この、魔王が居城を構える漆黒の砂漠が存在する地、ザルツ地方は、また一つ新たな始まりの年を迎えた。
何一つ問題が解決されることなく、地図の端から隙間なく塗りつぶしてくように、魔王の侵略は長い時をかけて進行している。
触れが発せられてから十年が経過した現在も、唯の一人も魔王城を踏破し、魔王の首を持ち帰ったもののいない【魔王討伐令】。
この三人の冒険者がその報酬を得た際に決めている願いは、ただ一つだった。
『村を滅ぼしたダークナイトの居場所を調べて欲しい』……。
七年前の復讐の対象を見つけたらどうするのか。
それは、過去に縛られたまま前に進むことができないでいる赤髪の聖騎士の少年、ザッツ・ストラウドが決めることだった。
行く先は魔王城に最も近い町、商業都市【アルカド】。
復讐をするのか、否か。
その選択は少年の胸に秘められ、その目的のために剣を取り、魔王を討伐せんがために三人の冒険者は戦いへと赴く。
聖騎士の少年は、復讐を。
魔術師の少女は、少年の救済を。
狩人の男は、二人の永遠の幸福を。
魔王を巡る冒険者達の物語が、始まりを知らせる季節と共にまた一つ、新たに始まろうとしていた……。