翡翠の若葉亭

月夜の温度[後編]

 自分とは反対の方向を見つめたまま、言葉すらも返してはくれない……。
 ミカゲは、突如ひどい頭痛に襲われた。さらには激しい動悸まで。

 ――まるで、俺の世界が崩れていくみたいだ。

 そう自身の異常を皮肉ったが、苦痛はひどくなるばかりだった。
 しかし、何よりも苦しいのは胸を狂ったように切り裂く痛み、心の傷だった。
 ヒサメに、まだ期待を捨てきれない目を向ける。
 しかし当然、ヒサメはこちらを振り向いてくれることはなかった。

 ――ああ、死ぬ。バカな俺は死ぬ。傷つけた俺は……彼女を傷つけた俺は、もう……。

 ただの沈黙が、まるで火で焼かれているような苦しみを胸に刻みつけ、冷静ではいられなくさせていった。
 今この瞬間以外でのヒサメとの沈黙は、とろけてしまいそうな程に甘くて、心安らぐものだったというのに……。

「……ヒサメ、怒って、いるよな? 本当にすまん。何でもする、お前のためなら何でもするから……その、嫌いにならな――」
「じゃあ、目を閉じて。そしたらヒサメ、もう勝手にするから」
「……ぁ、いや……、いや、分かった。お前に次に言葉をかけてもらえるまで、ずっと閉じてるよ」
「…………」

 ミカゲは覚悟を決めて、目を閉じた。
 一方的にだが、約束をした。シャドウは、決して約束を自ら違えない。
 もし、ヒサメがこのまま去って、二度とこの場所に帰ってこないというのならば、俺は死ぬまで目を閉じ続ける。魔物に襲われても、同様だ。

 彼には、昔から夢があった。
 自分の限界を知り、それでも自分と同等、またはそれ以上の戦士と戦い、勝ち続けること。
 そして現在は、幼少の頃よりのものを上回る、絶対に叶えたいと願う夢を持っていた。

 ――ヒサメと結婚し、彼女を幸せにすること。

 細かいことを加えれば、子供は養子を引き取って、冒険者稼業で俺が稼いだ金で家を立てて、家具は二人の共同作業で作りたい……などと無数にあった。ああ、それと毎晩一緒に団子と酒を口にしたい。

 彼女の存在自体が自分自身の責任ではあるが、しかし今は身も心も彼女に完全に魅了されてしまって、救いようがないとわかっていても、どうしようもない。
 俺は、ヒサメが俺に依存する以上に精神的に依存し過ぎてしまっている……。
 夜だからか、まぶたの裏の暗闇がやけに胸に染みた。
 生か、死か。

 風音だけの世界で、ミカゲはふと思った。
 自分の生死を最愛の人に任せるなんて、俺はなんという最低な男なのだろう。もし彼女が声をかけなければ、俺を殺させているのと同義じゃないか……。
 自己嫌悪が心を侵食する。プライドが柔らかい心の部分に容赦なく刃を突き立てた。

 ジャリ、と、ヒサメの草履が砂を踏んだかすかな音を夜闇に紛れる風が大きく響かせ乗せていく。
 また、ふと自分の期待している心に気がついた。
 頭をそっと抱きしめて、耳元で名前を呼んでくれる妄想。頬を張り飛ばされて、『今日だけだよっ!』と笑いかけてくる幻想。
 バカだ、俺は。普段のヒサメはそんなことはしない。これは自分の願望に無理矢理ヒサメを役に当てているだけだ。
 足音が自分に近づいてくる。スカウト特有の感覚が目を開けろと警告するが、俺は文字通り無視をした。
 その後のことは、何一つ想像することができなかった。
 やがて、右と左の側頭部に手が添えられ、固定される。
 何をされるのだろう、と鈍感な俺が気がついて息を呑んだ刹那、

「ミカゲ」

 唇に柔らかで温かいものが押し当てられた。
 目を開けたのが速かったのか、頭をヒサメに抱え込まれたのが先だったのかは分からない。が、初めの感覚は確かに、初めての甘い……遠い願いだと思っていた唇の感触だった。

「…………」

 ミカゲはヒサメとの顔の距離の近さ、頭を包み込む体温と優しい感触、柔らかな黒の長髪が頬に触れる感覚と石鹸の香り、そして何より、熱が集まっていく顔にかかる小さな熱い吐息に、クラクラと夢見心地になっていた。

 ――なぜ、何が、どうして?

 頭を無意味な言葉がグルグルと巡っていく。しかし、ミカゲから思考の全てを奪うことは、ヒサメにとってはひどく簡単なことだった。
 重ねただけの唇が、そっと離される。

「……嫌いになんてならないよ。ヒサメはミカゲがものすごーーく、ラクシア一、宇宙一、全部より一番大好きなんだからねっ」
「……ははっ、団子やおはぎよりもか?」
「うんっ! 大好きっ!」
「…………」

 ミカゲは言葉を失い、ヒサメを自分のひざに乗せて無言に強く抱きしめた。ヒサメも嬉しそうにミカゲの背に手を伸ばす。
 ふと、ヒサメはミカゲの頬を伝う雫に気がついた。
 しゅんとした顔で、悪いことをした子供が自白をするようにミカゲを見る。

「あ……ミカゲ、ごめ――」
「俺もだ」

 そう言って、ヒサメの言葉を封じるように唇を重ねた。
 ヒサメは静かに言葉を飲み込み、二人の恋人同士としての時を過ごすことに決めて、ミカゲに身を任せる。
 その様子は、『幸せ』という言葉が飽和してしまうほどの思いやりと愛情で満ちていた。

 星空と三日月が見下ろす小さなベンチで、二人の恋人同士が愛を語らう。
 月が二度と欠けることのないよう祈るように、二人も同じ祈りを互いに無言で捧げていた。
 願わくば、この幸せな時が永遠に続くようにと……。


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