翡翠の若葉亭

月夜の温度[前編]

 ミカゲは三日月を見上げて、どこか不安げに剣の手入れをしていた。
 隣にはルーンフォークの少女、そして恋人でもあるヒサメが三色団子を食べながら、ぴったりと寄り添っている。とても幸せそうに。

 幸せ……そう、今まではこんな幸せが自分に訪れることなど想像したことさえなかった。
 二人だけの家で、二人だけで寄り添って、一緒に月を見上げながら三色団子を食べ続ける……これ以上の幸せなんて、あるのだろうか。少なくとも、俺は知らない。

 そして……と、ヒサメの顔をまじまじと見る。
 するとヒサメも気がついたようで、ミカゲをうっとりとした目で見つめた。
 しばらくすると二人共が気恥ずかしくなり、月を見上げなおす。

 その全ての幸福の中心――否、核から端まで余すところなく、いわばヒサメ自身が俺にとっての幸せだ。
 見ているだけで、どうしても胸が苦しくなる。誰にも渡したくないと、抱きしめていたくなる。……ずっとだ。それだけで俺の心は温かいもので満たされ、他には何も考えられなくなる。
 ヒサメもヒサメで、そんな身勝手な俺の要求を受け入れて喜んだりなんかするから、どんなに恥ずかしくても全てが叶ってしまう。

 こっそりとヒサメを横目で盗み見ると、何やら月を真剣な表情で眺めていた。やがて、だんだんと深刻そうな表情に移り変わっていく。
 ミカゲは少し不安になった。

「どうしたんだ? 月に何か気になることでもあったか?」

 するとヒサメはミカゲを見上げた。とても可愛らしかった……なんて感想で頭がいっぱいになる時点で、俺は末期なのだろう。

「うん……実は、前にミカゲと町に行ったとき、“月見だんご”っていう団子を買ったことがあったでしょ? その時にお店の人に『普通の団子と何が違うの?』って訊いてみたの。そしたらね……」
「…………」

 しゅんとした様子のヒサメの頭に手を乗せてやりたくなったが、我慢した。
 まだ、話の途中だ。
 ヒサメは悲しげに続ける。

「お店の人は『月を団子に混ぜ込んでいるんだよ。だから月は満ちたり欠けたりするんだ』って言ったの。でも、ヒサメはミカゲに買ってもらった『お月様ガイドブック』に『月はテラスティア大陸みたいな石や土でできている説』のほうが本当だと思っていたから、そんな風に月を壊して団子に美味しくないものを混ぜるなんてひどいと思って……。それに、そんな風にしていたら、いつか月が全部なくなってしまうかもしれないと思って……」

 やがてミカゲは耐え切れずに吹き出した。
 手入れしていた剣を座っている木のベンチに立てかけ、ヒサメの肩に腕を回して自分のほうへと引き寄せる。一生変わらない姿とはいえ、本当に子供なのだと改めて再認識した。
 ヒサメは不服そうに頬(ほお)を膨らませるも、されるままにしている。

「もうっ! ヒサメは真剣に悩んでいるんだよ!? このまま月の掘削を野放しにしたら、ミカゲの“月光の守り”もなくなっちゃうかもしれないのに……。そんなことになったら、ミカゲの家族もシャドウも、すぐにやられちゃうよ?」
「……っはは、大丈夫だ。俺は強いし、シャドウは本能的に戦いを好む種族だから、“月光の守り”がなくなっても少し困るだけだよ」
「むぅー……そうやってお気楽に考えてるから、ヒサメの生まれた遺跡でも閉じ込められたんだよ? もう少しキキカンを持ちなさいっ、キキカンをっ」

 危機感の発音で、また笑ってしまうもヒサメの頭を優しく撫でた。
 ヒサメは気持ちよさそうにしてはいるが、やはりまだ納得していない様子だ。
 ミカゲは小さく息をついて、真面目な声音で言葉を紡ぐ。

「そうだな……じゃあ、一つだけ、とんでもない秘密を教えてやるよ」
「えっ、秘密!?」

 ヒサメは子供らしいキラキラとした目でミカゲを見上げる。
 その目を見て、胸に棒手裏剣や千枚通しが刺し貫いたような痛みが突如発生したが、ミカゲはスカウト特有の技法で表情を真顔に保った。

「ああ。実はな……月は決してなくなることはないんだ」
「え、そうなの!? でも、なんで?」

 ヒサメが驚いたようにクリッとした黒曜石のような美しい目を見開く。
 しばし見惚れてしまうが、すぐに口許を引き締めた。
 ――こいつ、きっと騙されるんだろうな……。

「これはテラスティア大陸最大の特秘なのだが、俺が月を作っているんだ。だから、いくら月が欠けようとも決してなくなることふぁっ……!?」

 話している途中で口に三色団子を突っ込まれる。
 驚いてヒサメを見ると、どこかすねている様子でそっぽを向いていた。どうやら怒っているようだ。

「ミカゲのバカ。ヒサメを子供扱いしてー……ミカゲなんかが、そんなにすごい力を持ってるわけないもん。いつまでもヒサメを子供扱いしないでよねっ!」
「あ……いや、……ごめんな、ヒサメ」

 ミカゲはあたふたと弁解するが、ヒサメは余程怒ってしまったのか、こちらを向いてさえくれない。さらには、回した腕からも押しのけて抜け出してしまった。それはそれで愛おしい……って、そんな場合ではない。

 ――調子に乗りすぎてしまった……どうしよう……。

 日頃の言動や会話を思い返せば、ヒサメが子供扱いされることを嫌うことなど、分かりきっていたではないか。
 だというのに、“からかいたい”などというバカなことを俺は考えて。だから皆にバカにされるというのに、何をやっているんだ。
 しかし、いくら考えても機嫌を直してもらえる方法は思いつかなかった。
 ヒサメは一度拗(す)ねると、意外と長い。それに、基本的に聞く耳は持ってくれないのだ。
 普段の手法としては、三色団子やおはぎを与える、というものがある。
 だが生憎、彼女は今まさに三色団子を食べている最中だ。
 『好きなものをあげれば、全部なかったことにできると思ってるの? ……ミカゲがそんな人だとは思わなかった。こんなところ、出ていく!!』そう言ってヒサメが離れていく姿が、やけに鮮明に頭に浮かんで、胸が張り裂けそうになる。
 そんなことになったら俺はもう……死ぬしかない。ヒサメに嫌われた俺なんか、死んだほうがいいんだ……。
 と、落ち込んでいる場合でもない。どうにか、ヒサメに許してもらわなくては……。
 そうしてミカゲが必死に頭を働かせて出した最善の答えは、非常にシンプルで映えのないものだった。
 『謝る。許してもらえるまで』

「ヒサメッ! 本当にすまん、俺が悪かったよ。お前が無邪気で可愛くて、ついからかいたくなったんだ……もう、絶対にしない。だから、その、俺を……嫌いにならないでくれないか……」

 自分が哀しくなるような言葉を心から紡ぎ、最後には消え入りそうな声音で言葉を投げかける。思いやり――否、自分の勝手な願いを込めて。
 そしてヒサメは、こちらを向いて、いつものように笑って「いいよ」などと、言ってはくれなかった。


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