プロローグ
――…………――
――…………て……――
――……助けて…………――
……誰?私を呼ぶのは――
――このままじゃ、もう……――
――……お願い……――
――お願い……助けて……――
あなたは一体……
「…………誰……な…………の……」
カーテンの隙間から洩れる日射しと小鳥のさえずりの中、ゆっくりと目を開ける少女。そのまま少女は上半身を起こし目を擦った。
「……ぅうん……今の、夢は……?」
「――おーい渚ー!朝だぞ、早く着替えて朝ご飯食べに来いよー!」
「あ、お兄ちゃんだ……起きなきゃ……」
少女――渚は一階から聞こえる兄の声を聞いて、頭にかかるもやを振り払う。
時計を見ると針は午前7時を指している。いささか遅い起床だった。
渚はすぐにベッドから降り、身支度を整えて一階へと降りた。
「おはようお兄ちゃん、お母さん」
「おはよう渚」
「おはよう。今日は遅かったわね」
リビングに着くと、兄は椅子に座り母は洗い物をしている。
渚はすでに用意されていた自分の料理の前に座り、洗い物が終わった母と先に座っていた兄と一緒に食事をし始めた。
「それにしても……今日は本当によく眠ってたわね」
「ああ、普段なら俺が呼びに行かなくても起きて来るのにな」
「うん……今日、というか最近ちょっと変な夢を見てて」
「変な夢?」
「うん…………真っ暗闇の中で、誰かが私の事を呼んでる夢。何でか凄く気になって」
言いながら、渚は夢の声を思い出す。途切れ途切れで聞き取り辛かったけれど、助けを求めるその悲痛な声は目覚めた今でも耳に張り付いていた。
「確かに不思議だが……所詮は夢だろ?気にする必要はないんじゃないか?」
「そう……だよね。私が気にし過ぎなだけだよね」
(何で何回も見るのか不思議だけど……気にしない様にしよう!)
渚はそう心に決め、食事に手を付け始めた。
丁度支度を終えた所に迎えに来た親友達と学校に行く。
その後特にこれといったこともなく、いつも通りに学校も終わって親友の千佳や紗恵子と一緒に帰っていた。
「――そういえば渚。あんた今日凄く眠そうにしてたわね」
「えっ……そ、そう?」
「そうよ。普段学校で寝る事なんてしないのに……どうしたの、具合悪い?」
紗恵子が心配そうに顔を覗いて来る。千佳も紗恵子と同じ思いなのか後ろで何度も頷いていた。
渚は訳を2人に話した。
「――最近、不思議な夢を良く見るって?」
「うん。助けてって誰かが私を呼ぶの。それが気になって寝不足気味で……」
「それは……確かに不思議な話ね」
「もしかしたら何かを暗示してるのかもねー」
千佳が横から口を挟んで来る。
千佳の言葉にそうかもしれないと渚は思った。夢だと一言で片付けられない何かを、あの声は含んでいる気がするのだ。
(でも、そうしたらあの夢は何を意味しているんだろう……)
「――まあ、同じ夢を繰り返し見る事もない訳じゃないし、そこまで気にしなくても良いんじゃない?」
「そう、かな……」
「そうそう!うちも好きな食べ物のプールに溺れるっていう不思議な夢を何回も見てるし!」
「それはただ単にあんたの食い意地が張ってる所為だから」
「ひどっ……ちょ、紗恵!?うちはそこまで意地汚くないよ!!」
いつもと同じ様な二人のじゃれ合いが始まった。それを見ていたら段々と夢の事も気にならなくなって来て、渚は自然と笑っていた。
「……あ~あ、それにしても二人は同じクラスで良いよねー」
「何よ今更。クラス替えしてもう一ヶ月以上経ってるのに」
「別にいーじゃん。だってうちだけクラス別になっちゃったんだよ!?」
千佳は口を尖らせ頬を膨らませて、いじけた様な表情をする。そんな千佳に苦笑しながら、紗恵子が頭をぽんぽんと撫でた。
「はいはい、いじけないの。後でケーキでも奢ってあげるから」
「ホント!?じゃあまずショートケーキとロールケーキ、あとカステラも!それから……」
「頼み過ぎ!!調子に乗らない。どれか一つだけだから」
「はぁ~い」
二人のやり取りはまるで親子の様だった。その様子に微笑みながら渚は二人を促す。
「じゃあ、そうと決まったら早速行こうよ。場所は美佐姉のお店で良いよね」
「やたっ!美佐姉のお店のケーキ美味しいんだもんね~!」
先程とは打って変わり、千佳はウキウキとスキップをするかの様に前を進んだ。
渚と紗恵子は顔を見合わせ、それからプッと同時に吹き出した。
「まったく……現金な奴」
「本当にね。でも、くよくよしない性格が千佳の長所だし」
「まあね」
「――おーい二人とも!早く行こうよー!」
「今行くよ!――行こう渚」
「うん!」
こちらに向かって大きく手招いて急かす千佳の下へと二人は駆け出した。
「ふぅー、美味しかったー!さすが美佐姉だね!」
「結局ケーキ三つ食べて……夕飯入らないんじゃない?」
「だいじょーぶだいじょーぶ!まだ腹四分目ってとこだから!」
「よく入るわ……あ、もうここか」
話しながらゆっくりと歩いていると、気付けば帰り道が別れる場所まで来ていた。
千佳と紗恵子の二人は家がお隣同士なので、必然的にここで別れるのは渚という事になる。
「まだまだ話し足りないのになあ~」
「そう言っても仕方がないじゃない。また明日話せば良いんだし」
「うんそーだよね!じゃあ渚、またね!」
「また明日」
「うん、二人共また明日!」
渚は手を振りながら二人と別れた。
後はそのまま帰るだけなのだが、渚はふと寄り道をしようと思い立つ。そうして行った先は、渚の家の近くにある山だった。
山と言ってもそれ程大きくはなく、舗装されてこそいないが気軽に歩く事が出来る様な所だ。
渚はその山の山頂にある見晴らしの良い原っぱに行く。茜色に染まる空と、町を挟んで反対側にある山並みの向こうにゆっくりと沈んで行く夕日が、とても幻想的な風景を創り出していた。
「わぁっ……。いつ見ても綺麗な景色だなあ……」
渚はその場に座ってしばし見蕩れる。
雄大なその景色を見ていると悩んでいる事や嫌な事を忘れられる様な気がして来るのだ。
(まあ何もなくても来るんだけどね)
夕日が完全に沈むまで、渚はその綺麗な風景を見続けていた。
夕日が全て沈み、辺りが闇に包まれ始めた頃。
「…………あ、もうこんな時間!?いけない、早く帰らなきゃ!」
空を見上げると大部分に星が浮かび、赤く染まる所は残りわずかとなっていた。
渚は鞄をしっかり持って慌てて坂を駆け降りていった。
太陽の光も届かなくなった頃、街灯の明かりが遠くに見えて来る。
残りもわずか、後少しで山を降りる事が出来る所まで来た、と思ったその時。
――…………――
「……えっ?」
唐突に耳が何かの音を拾う。
それは夢でいつも聞く、あの不思議な声に酷似していた。
「今の……ううん、今は寝てないしきっと空耳だよね」
渚は頭を軽く振り、後ろ髪を盛大に引かれながらも再び歩きだした。
だが……。
――……助けて!――
「っ!」
今度ははっきりと聞こえて来たその声に急いで振り向くと、道の横の草木が鬱蒼と生える場所に先程まではなかった獣道が存在していた。
渚は首を傾げながら獣道の入口に近付く。
「さっき……こんな所に道なんてあったっけ……?」
渚が訝しげに見ていると、また声が聞こえて来た。
――……お願い、助けて……――
「!やっぱりこの奥から聞こえて来てる。でも……起きてるのにどうして夢の声が?」
考えてみても何も思いつかない。
(理由は分からないけど、でも……この先に行けばあの夢の訳も分かるかもしれない。それに……何故かは分からないけど、…………行かなきゃいけない気がする)
「迷ってても仕方がないし。――よし、行こう!」
渚は気合いを入れる様に自分の頬を軽くペチッと叩く。
そしてまるで吸い寄せられるかの如く獣道へと入り込んだ。
夜も更けた獣道は当然暗く、でこぼこしていて歩き辛い。木で光は遮られ木のない上を見て歩かないと迷ってしまいそうだ。
(うう、暗くて怖い……でも、もう少しで夢の真相が分かるしっ)
渚は自分を勇気付けながら進んで行った。
ある程度進むと前方に開けた場所が見えて来る。そこに出ると、空に浮かぶ朧月を水面に湛えた小さな泉が出迎えた。
不思議な声はここから聞こえているようだ。しかし辺りを見回しても人っ子ひとり見当たらない。
「ねえ、あなたは誰?どこにいるの?」
だが声は渚の質問には答えず、ただただ助けを求めている。
――……助けて……――
「何を助けて欲しいの?助けてだけじゃ分からないよ」
その時、ただ助けを求めていただけだった声が別の言葉を紡いだ。
――このままでは壊れてしまう――
――消えてしまう……何もかも――
――手遅れになる前に……光を取り戻して――
「な、何。何の話?」
――各地に散らばる闇に染まりし宝玉に光を捧げ、聖霊を眠りの淵から呼び覚まし、光の神殿に収める……それで全てが元に、戻る――
「宝玉に聖霊……神殿?意味が分からないよ。あなたは何を言ってるの?」
この時渚は気付いていなかった。風が不自然な程吹き荒び木の葉を揺らしていたのに、泉の水面もそこに映る月も僅かたりとも揺らいでいなかった事を。
「とにかく、あなたは今どこにいるの?」
――私は……に…………でも、あの世界はもう――
「えっ?今なんて言っ……きゃ……っ!?」
声が上手く聞き取れず一歩前に踏み出したその時、一陣の風が吹いて渚の体を泉へと押しやる。それと同時に泉の方からも見えない何かが渚を強く引っ張った。その急な力にろくに抵抗出来ず、渚は宙を舞う。
「きゃああああーーーー!!」
大きな叫び声と共に水面へと落ちて行く渚。それを止めようと必死に手を伸ばすが、その手はただ空を切るばかり。抵抗虚しく渚の体は吸い込まれる様に泉へ落下して行き、そして盛大な水飛沫を立てて落ちてしまった。
(息が……息が出来ないっ!水面はどこ……!?)
突然の事にパニックになりながらも必死に水面へ顔を出そうともがくが、何故かどんどんと水底へ沈んで行く。それはまるで見えない手が渚を引きずり込んでいるかの様だった。
その事に更にパニックに陥り、息を全て吐き出してしまう。その代わりに大量の水が肺の中に入り、余りの苦しさに更に必死にもがくが、それでも何も変わらない。
仕舞いには大切な人の顔や思い出が走馬灯の様に脳裏に浮かぶが、苦しみが増して来るとそれすらもなくなり、何も考えられなくなった。
(苦し……いっ!誰、か…………助け……て……………………)
助けを求めて手を伸ばしたのを最後に、渚の視界は黒く染まって行き、そしてゆっくりと意識を手放した。